彼女は狼の腹を撫でる 番外編 少女とドレスと通り雨
堅く閉じた瞳の向こう側では、不快な生温さと若干の粘性を備えた液体が飛礫のように飛び交っている。飛礫というよりは季節外れの雹、予期せぬ通り雨、誰かしらが仕掛けた冷めた餡かけの罠といったところかもしれない。どっちみち不快であることに変わりはないし、入念に櫛を入れて綺麗に編んだ赤毛も、水に落ちた野良犬の尻尾のように力無く垂れ下がる始末。
髪の毛だけならまだいい。いや、決して良くはないけど、まだ許そうという気にならなくもない。いや、ならないんだけど、人生には寛容さと妥協点が必要だ。しかしだ、母が気紛れにというか幸せのお裾分けにと買ってくれたドレスまで、池に落としたドブネズミのように濡れそぼってしまうと、さすがの私も腹が立ってくるというもの。
静かに瞼を起こすと、トマト投げ祭りの投擲のような勢いで飛んでくる唾の向こうで、妙齢の美しい女がこの世の悪意の煮凝りのような罵詈雑言を発し続けている。
まったくなんで私がこんな目に遭わなければならないのか。特に悪いことをした覚えもないのに、なんだか罪人のような気分になってくる。頑として自白しない犯罪者には、ありったけの唾と罵声を浴びせるといいかもしれない。そうだ、今度、騎士団の警察隊にでも教えてあげよう。この町の犯罪検挙率も上がるに違いない。
私の名前はフェンリス・ブランシェット。17歳、狩狼官。ウルフリード【狼を繋ぐ紐】の名を継ぐブランシェット家の13代目だけど、今は狼を繋ぐ紐というよりか床に溢れた牛乳を拭いた雑巾のような姿になっている。一体全体、私が何をしたというんだ。頭の上から滴る臭い液体に眉をしかめながら、事の敬意をゆっくりと頭の中で反芻させることにした。
事の始まりは先日のことだ。私の暮らす自由都市ノルシュトロム、その寂れた労働者街の一角にポツンと佇むアングルヘリング自警団事務所のカウンターで、いつものように珈琲を飲んで暇を持て余していると、少し前まで同僚だった青年が博打にでも負けた時のような暗い顔で事務所の扉を潜ってきた。本来であれば扉は開けるものだけど、事務所の扉は度重なる乱暴な借金取りの襲来で破壊されてしまい、元々の建てつけの悪さと資金繰りの悪さが重なった結果、扉だった物に強引に端材を打ち付けた、前にも横にも開かないオブジェクトと化してしまった。だから板と壁との隙間から強引に身を潜らせて出入りするしかないのだ。以上、説明終わり。
「……で、どうしたの? 財布を落としたみたいな顔して」
「財布は落としてないが、厄介なことに巻き込まれてな」
「なるほどね。それじゃ、私はこれで」
この男のことは決して嫌いではないけど、厄介なことは願い下げだ。それなりに長い付き合いではあるものの、私は義理とか友情とかそういう類のものと平穏とを並べた時に、迷わず平穏を選ぶことにしている。数ヶ月前まで結構大変な旅暮らしをしてたのだから、今年はもうなるべく静かに過ごしたいのだ。彼には悪いけど。
「それでレイル殿、厄介事というのは?」
「それがだな……」
カウンターの向こう側で、暇を持て余し過ぎて透明としか形容しようのないグラスを更に磨いていた受付の爺さんが、ようやく暇潰しの道具を見つけたと云わんばかりに事情を聞き出そうとしている。いやいや、そういうのは私が居ないところでやってよ。私は今すぐ下宿に帰って、シャロに水浴びでもさせながら、ついでに私も汗でも流そうと思ってるんだから。
あ、シャロは私の飼っている狼で、普段は下宿の番犬をしたり、一緒に事務所でくつろいだりしている。今日は下宿の女学生たちが夏休みということもあって、朝からかわいいかわいいと撫でられていたので、そのまま遊ばせておいた。シャロは世界一かわいいもふもふなので、そうなってしまうのも仕方ないし、飼い主として撫でさせてあげるくらいの度量は持ち合わせているつもりだ。
「ウル、先日お前の母親とグレムナードの結婚式があっただろ」
しまった、完全に捕まってしまった。椅子から立ち上がろうとした瞬間を狙い澄ませたかのように話しかけられて、しかもそれが母と義理の父の話題なのだから、このまま立ち去るのも不自然過ぎる。別に立ち去ってもいいんだけど、万が一にも私が与り知らぬところであのふたりが何やら起こしていたのだとしたら、先に知っておく必要もあるだろうしし。
「……そういえばあったね」
私は指2本分ほどの幅で持ち上がっていた尻を椅子に下ろし、グラスの中に残った溶けかけの氷を揺らしながら、一応形だけでも聞く姿勢を取ってみせる。聞くことは聞く、聞いたところで私が何か行動に移るかどうかは話の内容による。そういった意味での聞く姿勢だ。
「それで、うちの母と義理の父がどうかしたの?」
しばらく失踪していた母は、二月ほど前にノルシュトルムに帰還を果たして、かつての相棒で旧知の仲である目つきと顔色の悪い魔道士、カール・エフライム・グレムナードと婚姻を結び、2週間ほど前に割と盛大に式を挙げた。結婚式なんて当事者と親族だけで地味にひっそりとやればいいのに、と思ったし義理の妹のファウストも概ね同意見だったのだけど、なんせ私の母は美人だ。年の頃は40歳かそのくらいのはずだけど、見た目は20代半ばほどにしか見えず――これは実際に肉体的な加齢から逃れていたから事実そうなんだけど、40も半ばの人相の悪い中年男がそんな若い女と籍を入れるのだから街は大騒ぎになって、とりあえず来たい奴は全員来いという来る者拒まずシステムにしたところ、黒山の人集りどころか人間の群れといった具合にまで膨れ上がり、それなりの御祝儀を頂くことになった。
で、御祝儀はふたりで新婚旅行にでも行ってもらおうということで全額渡し、今頃はおそらく大陸南端の開拓都市ワシュマイラ辺りにいるはずだ。
「式が当初、呼べる人がいないから搔き集めようって話だったのは覚えてるか?」
「……そうだっけ?」
そういえばそうだった気もする。式場を予約した当初は、費用を少しでも補填しようと親族以外にも人を呼ぼうということになり、しかし長らく失踪していた母と天気が悪ければ不審者に間違われかねない男のふたりが呼べる相手など、せいぜい自警団事務所の所長とじいさん、あとは下宿の女将さんくらい。もう少しどうにかならないかと方々に声を掛けた結果、今度は集め過ぎたってなってしまったわけだけど、大は小を兼ねるともいうし多いに越したことはない。
「そこには俺の家族も来てたんだが」
「そういえば来てたね。慌てて挨拶したけど、特に粗相はしてないよ」
彼、レイル・ド・ロウンの家族は元々は王都で服飾商人をしていた。王都の治安は正直あまりよろしくないというか、少々きな臭さが漂っているそうで、物価と地価の安い地方都市に移住する者も少なくないのだとか。その例に漏れず、十年ほど前からノルシュトロム近くの中規模都市で暮らし、王都暮らしで得た人脈を活かした流通業を始めたらしい。ちなみに弟と妹が何人か居て、彼らは立派に役所勤めや教師をしていると言ってた、ような気がする。忙しくて細かいところまで覚えてないけど。
「俺も騎士団に復帰することになったから報告したんだが」
急に契約解除したからどこかの金持ちの用心棒にでもなったのかと思ってたら、まさか聖堂騎士団に復帰したとは。レイルはかつて聖堂騎士団に所属していたものの、とある賭け試合で惨敗して面子を汚したとして解雇され、日雇い労働的に自警団員をしていた。騎士団は王都から派遣される治安維持組織であり、各都市の警察隊や消防隊を管轄する立場にある。一方、自警団はあくまでも民間組織で、警察隊の補助的な側面が強く、住民たちから見れば下部組織も同然。騎士から自警団員に転がり落ちた時は生きた心地がしなかっただろうけど、よくもまあ這い上がったものだ。それだけレイルが優秀なのか、それとも人手不足なのかはちょっとわからないけど。
「おめでとう」
素直に祝福しておく。こうやって正直な善意を伝えておくと、後々なにかしらの食べ物だったり映画館の入場券だったり、そういうものに姿を変えて戻ってくることは知ってる。情けは人の為ならずとは、まさにそういうことだ。
「ああ、ありがとう。それでだ、報告したまではよかったんだが」
レイルが斜め上を見上げながら眉間を狭めて、少し長めの溜め息を吐き出す。
「……言いにくいことだったら言わなくてもいいよ。私も面倒事に巻き込まれるのは御免だし」
「いや、言いにくいというか、単純に憂鬱になるだけだ。よくある話なんだが、親というものは子ども、特に長男には早く落ち着いて欲しいものらしい」
「確かに。以前、息子に言われたのを思い出したよ。頼むから降霊術用の案山子の卸売りだけは辞めてくれって」
じいさんには少し黙っていて欲しい。ちなみにじいさんは、夜な夜な金持ちの家の寝室を訪れて子守唄を歌う専門の行商をしたり、定食屋が捨てた鶏の骨を聖遺物だと偽って訪問販売したり、公園に大量の鴉を集める需要のわからない仕事をしたりした他にも、事件現場に貼られた黒いロープに黄色の塗料を塗って回る仕事だとか、悪魔崇拝者に紫色の煙を発する無害な葉巻を売って回ったり、巨大人食いカバの歯をモップで磨く歯科衛生士なんかもしていたらしい。どれも需要があるのかどうかわからないけど、そういうのが隙間産業というものなのだろう。隙間過ぎて風も通り抜けそうにないけど。
「要するに、お前も結婚する頃じゃないかって、そういう話だ」
じいさんは無視してレイルが話を続けている。彼も27歳だ、そういう話が出てきても不思議ではない年齢だ。世の男女が何歳で結婚してるのかは、正直言ってよくわからない。
「で、一体なにが憂鬱なの?」
「俺は言ったんだよ。そんな相手はいないし、出張やら転勤がつきものの仕事だから、今のところそんなつもりもないと」
深く嘆息して愚痴っぽい口調になったレイルは、年齢より幾らか若く、若くというか幼さを含んだようにも見える。私も母と喋っている時は子どもっぽく見えているのかもしれないから、門外不出にしておこうと秘かに心に決めた。
「そしたらあの人たち、誰か相手はいないのかと怒り出したわけだ」
「癇癪で乗り切る人なのね」
うちのばあさんも概ね癇癪と暴力ですべてを乗り切ろうとする人だから、レイルの親も似たような種類の人間なのだろう。親になるということは暴力的になるのか、子を想う気持ちがそうさせるのか、それとも元々そういう類の者がそうなるのかは、親になったことがないからわからないけど。さすがにばあさんほどの暴力と暴言は繰り出さないだろうけど、血縁者の癇癪ほど醜いものはないので、気持ちは理解出来るし同情もする。
「しかも頼んでもいないのに、勝手に相手を見繕ったとか……本当に迷惑な話だ」
強引さもうちのばあさんに通ずるところがあるかもしれない。なにやら本人の与り知らぬ間に話を進め、お見合い相手まで用意しているそうだ。私の知ったことではないけど、お気の毒にの一言でも掛けてあげたくはなる。そうだ、レイルには色々と世話になったことだし、ここはひとつブランシェット家に代々伝わる解決法を教えてあげよう。
「これは我が家の家訓なんだけど、うるさいガチョウは絞めてしまえというのがあって」
「いや、親を殴るわけにはいかないだろ」
腕力での解決法は却下された。それもそうだ、むしろレイルが親を殴れる人間じゃなくてよかった。
というのが、おおよその話の流れだ。
確かその後、下宿に戻ってファウストにその話をしたところ、
「あんたねえ、少しは焦った方がいいんじゃない?」
と呆れた様子で、まるで人間の愚かさを見通している時の猫みたいな顔で、同じく頑として場所を譲らない時の猫みたいにソファを占領した姿勢のまま忠告の言葉を放ってきた。
こちらも昼下がりの犬みたいな顔で、なぜと疑問を浮かべていると、手元の『ウソッサモルサの極彩色の雌鶏』なる珍妙な題の魔術書を閉じて、世間の婚姻市場について刻々と説明してきたのだ、まだ14歳のくせに。
この猫みたいな義妹がいうには、彼女の通っているメフィストフェレス魔道学院も含めた世間の学校では、私くらいの年齢の女子は卒業を間近に控えていることもあり、将来の伴侶選びを既に始めているそうだ。学生の身分の間とは打って変わって、社会に放り出されると男女の出会いというものは極端に狭く少なくなり、接客業でも選ばない限りは仕事関係か酒場、あとは見合いくらいでしか遭遇しなくなるという。よって男女比率がそれなりに理想的で、おまけにそれなりに裕福な家柄の候補者から選べる学生の内に相手を見つけ、半ば強引にでも恋人関係になり、就職して生活が落ち着いた頃に結婚するのだという。一方で、学校に通わず家業を継いだり労働に従事している若者も、大抵は私くらいの年齢には幼馴染だったり先輩方の紹介だったりで相手を見つけており、このノルシュトロムでは総じて結婚適齢期が早めに訪れるらしい。
要するに、その辺りに歩いているそれなりの身形をした若い男女は大抵は既に伴侶となる相手がいて、もしくは既に幸せかどうかはさておき家庭を築いていて、汽車に乗り遅れた者は誰かが破局して落ちてくるまで、草原のハイエナのようにうろうろと獲物を求めて彷徨うことになるのだ。ちなみにハイエナはかわいいと思うけど、好き嫌いが分かれる動物でもあるらしい、結構かわいいのに。
私は足元でスヤスヤと眠っているもっとずっとかわいいモフモフを撫で回す。ハイエナは好き嫌いが分かれるけど、シャロのような愛され動物を嫌いになる人間などいない。でも信じ難いことに、世の中は珍妙な人間もいて、狼どころか犬だったり猫だったり、人によっては鳩なんかも嫌うことがあるらしい。一方で、蜥蜴だの蛇だの好き好む奴もいるのだから、人間の嗜好というものは結構不思議だなって思う。
これは異性の好みにも当てはまるのかもしれない。さすがに目の前の、義姉の私がいうのもなんだけど、圧倒的美少女なファウストの見た目を好みでないと断ずるような男はいないだろうけど。
「それで、なんで私が焦った方がいいの?」
「あんたねえ、こっちに越してきたから知り合った人、思い浮かべてみなさいよ」
失礼な、私だってまともな知り合いくらいいる。女子学生向けの下宿に住んでいるから男女比率は大きく偏っているけど、独身の男の知人だと、まず騎士団で働くレイル、借金だらけのおじさんこと自警団事務所の所長、怪しい過去と胡散臭さしか持たない受付の爺さんも現在は独身、ワシュマイラで仕事にあぶれている母の弟子の狩狼官の男、あと女将の甥っ子の年の近い男の子がいるけど名前を忘れたので知人の枠には入れていない。以上だ。
「わかるでしょ、カードでいうとレイル以外もれなくブタよ」
「それは豚に失礼じゃない? 豚は食べて良し愛でて良しの立派な経済動物なんだから」
豚は私の中でも食べ物に分類しているけど、豚がかわいいかどうかでいえば、ちゃんとかわいいと思う。かわいい上に食べておいしいのだから、考えようによっては犬猫よりも強いのかもしれない。牛・豚・鶏・羊……この辺りが動物界の4強かもしれない。
などと、どうでもいいことを考えていると、ファウストが哀れな捨て子でも見つけた時のような、憐憫と同情を含んだ瞳をこちらに向け、静かに首を横に振ってみせ、
「いつまでも今みたいな生活してられないんだから、使える手札は意地でも抱えておきなさいよ」
などと小姑みたいなことを言ってのけたのだった。まだ14歳のくせに。
釈然としないものはあるけど、ファウストに言われるがままレイルの家族が泊っているノルシュトロム公共第4ホテル、通称『雨蛙のフォックストロット』に向かい、1階にある食事するだけで1週間分の生活費が飛びそうなレストランに潜入した。宿泊客が野蛮な住民たちと接触しないよう入店に際してのドレスコードがあり、普段の格好だと問答無用で追い出されるので、結婚式場で拵えたカジュアルドレスまで用意してだ。
隅っこの席で一番安く済む珈琲とオムライス単品を待ちながら、中央のテーブルに視線を向けると、普段と違ってめかし込んだ背広姿のレイルと、その向かいに妙齢の上品そうなご婦人――これはレイルの母親だ、確かこんな顔だったはず。さらにその隣の席には、これといった特徴はないけど育ちと品が良さそうな20代の女。通路を挟んで横のテーブルには、どことなくレイルに似た風貌の男女が数人、おそらく弟妹たちが座っている。端っこに豆もやしを擬人化したような痩せた中年男がいるけど、確か彼の父親だったと思う。式で挨拶された時に、豆もやしみたいだなあって思ったから、たぶん合ってると思う。パッと見には一般的な中流階級の幸せなディナーといった様子で、レイルも多少の気遣いは入っているんだろうけど、朗らかな顔で談笑なんかしている。
「……なんか腹立ってきた」
謎に不快感を覚えて、ようやく出てきた味の薄い気取った珈琲を飲み込んでいると、私の視線か雨の日みたいな湿気を含んだ気配でも察したのか、レイルの母親が私の姿を視界の端に捉えた。そのまま静かに立ち上がり、ツッタカツッタカとヒールを踏み鳴らしながら接近してきたかと思うと、満面の笑みで私の両脇に腕を差して持ち上げて、
「あら、このお嬢さん、結婚式にいた子よねえ。なによ、あんたにも良いお嬢さんがいるじゃないの」
小綺麗に着飾った私に気をよくしたのか、唐突に妙な勘違いを繰り出してきたのだ。いや、その手の勘違いは今この場では本当に止めて欲しい。テーブルの品の良い女が、絶対に人前で出してはいけない表情をしている。例えば家に帰った時に泥棒と鉢合わせて、フライパンか包丁を握り締めた時にしてしまうような、そういう攻撃的な顔だ。
待った、私はそういう間柄ではない。レイルとはあくまで友人、むしろ友人というよりも知人、言ってしまえば近所の誰にでも面倒見のいい青年と、2日に1回くらいは顔を合わせている年下の小娘くらいの関係性なのだ。いや、これはこれで語弊がある例えになってしまってるけど。
「……ウル、なんでここにいるんだ?」
レイル、今は名前で気やすく呼んじゃ駄目なんだって。その証拠にテーブルの攻撃的な女の顔が、たまたま銃を握ってる時に親の仇にでも遭遇した時みたいな、そんな顔に変わっている。
「レイル、今は名前で呼んじゃ駄目だって!」
甲高い音を立てて硝子の砕ける音が響く。音の発生源は説明するまでもなく、テーブルの仇敵発見器の手元だ。真っ白いテーブルクロスが、ワインと血で赤く染まっている。
「それでお嬢さん、あなた若く見えるけど何歳? お仕事は?」
レイルの母親が私を持ち上げたまま、興味津々といった表情で尋ねてくる。どうやらレイルの相手は割と誰でも問題ないみたいで、それこそテーブルの血染めバーサーカーである必要もないらしい。
「母さん、その子は」
「あんたには聞いてないの。お嬢さん、あなたのこと教えてくれるかしら?」
テーブルの方からゴキリゴキリと鶏の骨でも折るような音が流れてくる。血染めバーサーカーが掌全体に、指の節々にまで全神経を集中させて、筋張らせながら拳を握り込んでいる。殴る準備は完了したといった具合だ、もう一言二言交わしている間に飛んできてもおかしくない。それはそれとして質問には答えておく。
「えーと、17歳、狩狼官です……狩狼官の仕事は今ほとんどないので、アングルヘリング自警団事務所と契約してて」
ここまで説明した途端にフルスウィング気味に放り投げられて、レイルと並べられて罵声を浴びる羽目になってしまったのだ。それはもう、私じゃなくて下宿の女子学生なんかだったら、きっと5秒で泣いてるなってくらいの勢いで。
さらに不幸なことにレイルと並んだ姿がいよいよ女の癇に障ったのか、テーブルから椅子が飛んできたので寸でのところで避け、後方に流れる椅子の足を掴んで軌道を線から円へと変えて、そのまま反社的にテーブルに投げ返してしまった。人の代わりに遠心力を乗せた椅子は、思いのほか速度を高めて元の位置へと帰還し、中腰の姿勢の女のこめかみを直撃した。
そのまま押される勢いで引っ繰り返った女を見て、さすがに放置はよくても怪我はまずいのかレイルの母は罵詈雑言の剣幕を強め、あらん限りの唾液が通り雨のように降り注ぐこととなった。初めこそ唾を鬱陶しがって頭を動かして避けたりしていたけど、コパァと軽妙な音を立てながら放たれた塊状の唾が頭に直撃した時、なんかもうすべてを諦めるような気持ちになったのだった。
◆❖◇❖◆
というのが今日の一連の出来事だ。
おおよそ人間に向ける類の物ではない罵詈雑言を、人間の耳に入れてもいいように紐解くと、レイルの母親、バスクカーナ・デ・ロウンは十年ほど前、今の仕事を始めたばかりの頃に旅の狩狼官に得体のしれない機械を売りつけられ、しかも機械が暴走して倉庫が滅茶苦茶に壊されてしまった。十中八九その狩狼官は私の母で、その時は帽子とマフラーで顔が隠れていたから式では気付かなかったらしい。さらにその翌年、ようやく倉庫の修理と荷物の保証が終わった頃、ノルシュトロムで貧乏そうな自警団の男に唆されて、商品を借金の形に奪われてしまった。十中八九その自警団の男はアングルヘリング自警団事務所の所長フィッシャー・ヘリングのことだ。そう名乗っていたそうだから間違いない。おまけに大損で意気消沈している帰り道に、空き地で行われている人相の悪い男と幼い少女の魔術実験の巻き添えで、しばらく妙な悪魔に憑りつかれてしまったのだとか。答えるまでもないけど、十中八九そのふたりは義理の父と義理の妹で間違いない。
要するにレイルの母親の過去の不幸の煮凝りみたいな部分に、尽く私の家族や職場が関わってしまっているのだ。
そこに正当防衛とはいえ椅子でお見合いの相手を殴打したものだから、ただでさえ油だの火薬だのに塗れていた導火線が一気に燃焼し、こうやって全身ずぶ濡れになるくらい言葉攻めを受けることになってしまったわけだ。
ちなみにレイルは私を庇うように割って入ってくれたけど、眼球に唾の塊が直撃して蹲り、ちょうど私の腰くらいの高さで頭の天辺から雨のような唾を浴びている。
「あの、もういいですか……」
体内に仕込んだ桶だか樽だかが空になったのか、バスクカーナの声が止まり、唾の一滴も出なくなったのを見計らって言葉を発した。嵐の中に無闇に踏み込んではいけない、じっと去るのを待ってから外に出ろ、という先人の教えに従った形だ。従う必要もないけど、さすがに言葉攻めでは命を奪われることはないし、レイルの母親を蹴って黙らせるわけにもいかない。ならばと最小限の被害で済むように、嵐が過ぎるのを待ったわけだ。心の傷は思ったより深いけれども。
「いいわよ、ちょっと休憩したいから」
どうやら言い終わったわけではなく、一休みしているだけらしい。ということは嵐が過ぎ去ったわけではなく、台風の目に入ったような状況なわけだ。どうせまだ汚れるんだろうなと半ば諦めながらも、さすがに不快だし臭いも酷いので、適当な席のテーブルクロスを借りて、これ以上ないくらい惨めなことになっている頭と顔を拭う。高価な生地で作られたテーブルクロスから、実家の訓練場の雑巾みたいな臭いがする。よくもまあこんなに汚せるものだなと感心してしまう、不快感を少しでも和らげる為の方便みたいなものだけど。
「まず私とレイルの関係なんですけど、恋人とかそういうのではなくてですね」
「あら、うちの息子じゃ物足りないとでも?」
まるで嫁をいびり倒す姑みたいな物言いに対して、あなたの罵声と唾液で十分お腹いっぱいですけどね、とは言わず、私は精一杯笑顔を作って微笑み返し、
「まだ17歳ですし、彼とは10も年が離れてますから」
自分で思いつく中で、一番無難なカードを切ってみせる。
「あら、婚姻法上では許される年齢よ。学校で習わなかったのかしら?」
「今は学生の内に相手を見つけて、就職して落ち着いた頃に籍を入れる人も多いんですよ。だからまだ少し早いかなーって」
学校行ってないから知らない、とは答えずに、追加で無難なカードを重ねる。しかもファウストから教わったばかりの知識を含める入念さだ。14歳の義妹の知識に頼る17歳の姉という構図は、私の家庭内地位を揺るがしてしまいそうな気もしなくもない。
「あら、私があなたくらいの年には息子を授かってたわよ。それにあなた、もう仕事してるじゃない?」
その仕事はさっき散々扱き下ろされましたけどね、などとは口が裂けても言わず、唾同様に粘っこい性質の目の前の女に、これが義理の母になるのは嫌だなと思いながらも、自分の中に残された手札を並べてみる。なにか気の利いた言い訳はないものか……うちには大きな犬というか狼がいて、いや、これはむしろ長所だ。私個人の魅力はさておき、でっかいモフモフなんて人間にとってご褒美でしかない。祖母がアレなんで、いや、これは明らかに悪手だ。下手したらバスクカーナとばあさん、両方に挟まれて怒られてしまう可能性がある。義妹がまだ14歳なので、もはや意味がわからない。だからどうしたって話だ。あ、これならいいかもしれない。
「うちの実家が家名にちょっとうるさくてですね、おまけに一人娘なもので、嫁に行けないんですよ」
完璧だ。心の中で会心の返答に思わず拳を握る、実際には直立不動のままだけど。しかし我ながらこの回答は完璧だと思う、こうも結婚にうるさい過干渉気味な母親なのだから、嫁に来てほしくても婿に出すつもりは無いはずだ。お断りの理由としてはこれ以上ないと自負できる。
「問題ないわよ、主人も長男だったけど婿入りしたから」
視界の端で豆もやしみたいな男が、体を僅かに傾けてへらっと微笑む。豆もやしめ、いや、豆もやしに罪はない。婚姻の形は人それぞれだ、でも今この状況下では邪魔でしかない。
手札は尽きた、いつものように暴力に訴えよう。
私はアクセサリーも兼ねて左右の二の腕に嵌めている紫色の金属輪に意識を集中する。これはブランシェット家の狩狼道具で、意識と力を注ぎこめば本来の形に展開して、状況を打破する必殺の武器となる。原理は知らないけど、そういうものだと理解している。
【辺境伯ベッテルハイム】
精神的抑鬱で苦しんだ辺境伯の処刑用の大砲を改造した砲戦ユニット。形状は背中に背負った可動式の連装砲で、肩越しでの左右同時発射も、左右の腕でそれぞれ撃ち分けることも可能。弾は徹甲弾と散弾の2種類。
ベッテルハイムを起動させようとした瞬間、レイルが私の肩に手を置き、静かに首を横に振りながら割って入った。首を振った瞬間に、髪の毛を濡らす液体が飛んできたけど、もう今更なので問題にはしない。若干犬みたいだなって思っただけで。
「母さん、そもそも俺とこの子は恋人とかそういう関係じゃないんだ」
「あら、あんた、この子じゃ自分と釣り合わないとでも?」
バスクカーナが今度は私の側に立って、レイルにねちねちとした物言いで問い掛ける。この女の情緒と思考の切り替わりにまったく付いていけないけど、本人的にはきっとなにか理屈があってのこの言動なのだろう。もしかしたら風向きだけで生きてる鶏の屋根飾りみたいな人かもしれないけど。
「そうじゃないけど、結婚っていうのは段階を踏むものだろ」
「あら、私は出会って5分で結婚したわよ」
レイルのごもっともな正論に対し、またしても自分の例を出して覆す。視界の隅で豆もやしがへへっと照れ臭そうに笑っている。バスクカーナよりも豆もやしが悪なのでは、とか思いたくなってきた。もういい加減にして欲しいと他の弟妹たちを睨むと、こういう事態に慣れているのか、特になにをするでも止めるでも加勢するでもなく、椅子に腰かけたまま珈琲や紅茶を飲んでいる。こいつらとは仲良く出来そうにないなと本能的に察しながら、こめかみの辺りがひくひくと痙攣していることに気づく。ああ、もう、いっそのこと風呂入って寝てしまいたい。
全てを諦めて長く深い溜息を吐き出すと、バスクカーナはレイルと私を包むように左右の手で肩を掴み、
「いいかしら、レイル、それとお嬢さん。私はね、多くを望んでるわけではないの。あなたがお嫁さんを連れてきて、あ、これはあなたがお婿さんになってもどっちでもいいんだけど、とにかく落ち着いて家庭を築いてもらって、朝はお嫁さんが甲斐甲斐しく朝食を作ってくれて、ちょうどテーブルに並び終えたタイミングで起こしてくれて、掃除と洗濯と食材の買い出しと庭の草むしりとゴミ出しと回覧板とか税金の手続きとか面倒な事は全部済ませておいてくれて、夕方はお嫁さんの作ったディナーを家族みんなで囲んで、わいわい賑やかに過ごして、その中心にはもちろん私がいて、私の右手のグラスには上等なワインを注いでほしいの、あら、左手がお留守になってるじゃない、そんな左手で孫を抱きたいの」
えげつない数の要求を投げ込んできた。世間一般の親というものは同じように図々しいものなのか、目の前の欲深い女が異例なのかわからないけど、こういう風にはなるまいと秘かに決意する。出来れば素敵な女になりたいもの、あんまり具体的な想像は出来ないから、目の前の具体的過ぎる反面教師の姿は覚えておくことにする。
「ウル、今日のところは帰ってろ」
これ以上巻き込めないと思ったのか、レイルが私に帰るよう促してくる。どうせなら唾が飛んできたタイミングで帰らせて欲しかったけど、私から首を突っ込んでしまった形なので、あからさまな文句を言える立場でもない。むしろ気遣いに感謝しておこう、後日美味しいランチでも奢ってくれるかもしれないし。
「あら、私の話は済んでないわよ」
「いいから。そもそもこの話はうちの家の問題で、俺もこれ以上家族の恥を晒したくないんだよ」
レイルにぐいっと肩と背中を押されてレストランの出入り口へと追いやられ、ごく自然な動きでカウンターの上に私の食事代が置かれ、そのまま自然な流れで湿度の高い鉄火場から放り出されることになった。
よし、帰ろう。そう決めた私の後ろ、薄いガラスの貼られたドアの向こうからレイルとバスクカーナの声が聞こえてくる。
「 !!」
風に運ばれるように流れてきて、合間合間で叩き落とされるように途切れたりする声に耳を澄ましながらも、私の足は少しだけ軽やかさを含んで外へと向いたのだった。
◆❖◇❖◆
「……というわけで、すごく酷い目に遭った」
湯浴びついでに洗濯も済ませて、ようやく人間らしさを取り戻した私は、シャロをわしゃわしゃと撫で回しながら如何に酷い目に遭ったか、どれほど無為な時間を過ごしたか語ってみせた。私の行動に呆れてしまったのか、鉄よりも頑固そうな母親という生き物に呆れているのかわからないけど、ファウストはまるで馬鹿を見るような目で、まるで馬鹿を相手にしてるような顔で、まるで馬鹿に疲れてしまったように背中を壁にもたれ掛からせた。
「どうせそんなことだろうと思ったけど……なんであんた、ちょっと嬉しそうなのよ?」
「いや、今の話を聞いて、どこにそんな要素があると思ったの?」
ファウストが白くて細い指を突き出して私の頬を左右から摘まみ、ふわふわのパンを伸ばすように引っ張り、呆れた目の上に付いている両の眉をぐっと近づける。
「そういう顔してるのよ」
「そう?」
果たしてそんな顔になるようなことあっただろうか。姉に呆れる失礼な義妹の、猫みたいな柔らかい髪の毛を撫でながら、帰り際に耳元で掬い上げた言葉を呼び起こす。
(———俺はあいつを尊敬してるんだよ。母親を探して大陸中を旅して、危険な目に遭ってでも諦めずに前に進んで、実際に探し出して捕まえた。そんなこと並大抵の奴には出来ない。俺がウルの立場だったら、きっととっくに諦めて放り出してるだろうな。だから、こんな下らないことに巻き込みたくないし、足を引っ張りたくないんだ———)
尊敬ねえ。もう少し気の利いた言葉があってもいいと思うんだけど、まあ、情けないとか手間がかかるとか、頼りにならないとか、そんなふうに思われるよりはいいのかな。
「ほら、また顔が緩んでる」
「そうかなあ?」
あまり自分の感情に名前を付けるのは得意じゃないけど……そうか、嬉しいのか。
私は少しだけ意図的に笑みを浮かべて、窓の外に拡がる透き通った夜空に目を向けてみせた。
ちなみにお母さんがバスクカーナに売りつけた機械は後日、お詫びの品々と一緒に豆もやしから送られてきたのだけど、それはまあどうでもいい話だ。お詫びの品も普段買えないような高い珈琲豆とかでなく、『自宅で簡単!豆もやし栽培キット』とかいう子どもの自由研究向けの代物だったし。
今回の回収物
・ミリアチット
未回収のブランシェット家の狩狼道具。半径20メートル内の音に反応して打ち据えるペンデュラム。人間の鼓動や呼吸音にも反応してしまうため、起動には細心の注意が必要となる。先端が赤色で鎖は黄金色。
ミリアチットは異常なまでに驚きを示す病気の名前。
分類:サブウェポン
威力:40
射程:半径20メートル
弾数:6
追加:自動迎撃