三界廻って碗~第1話 かみのみそしる~

いただきます、の歴史は古い。
時間をさかのぼったわけじゃないから知らないけど、人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思う。もしくは自然への感謝、太陽への畏怖かもしれないけど、その辺りはどうでもいい。大事なのは食べ物への感謝だ。
食べるものがあるというのはありがたい。長く生きてると飢饉や天災は避けて通れない、やつらはいつだって人間の前に立ちふさがるし、畦道に現われる猪のように通せんぼしてくるのだ。遠い将来、もしかしたら世の中から飢えという概念が消え去る日が来るかもしれないけど、それでも人も獣も魚や虫でさえも生きている限りはおなかが空くし、食べ物への感謝を忘れることはないと信じている。仮に食べ物を粗末にするような愚か者が現れたら、そんなやつは滅んでしまえばいい、すべからく。

ところで人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思うってさっき思ったけど、人間の最初の発明は食べ物を組み合わせることだと思う。思うというか違いない。おそらく最初は蛇か鳥かなにかの生肉に果物か野草を混ぜた、とかそんなだと思う。海の方に住んでたらそれが魚と海藻に変わるけど、そこら辺の地域差は似たようなものなので気にしない。どちらにせよ、きっとそこに大きな感動があったはずだ。
さらに塩とか醤とか味噌なんて開発しちゃったものだから、それを肉や野草に塗りつけた時の感動なんて、もはや驚愕とか驚天動地とか天変地異とか、それくらいの圧倒的な強さがあっただろう。

『肉、うめぇ……!』

おそらく誰しもがそんな言葉を頭に思い浮かべ、涙を流しながらがっつくように頬張ったに違いない。頭の中でなにか爆発したというか、変な汁とか出てそうな、それくらいのうまさを感じたはずだ。食べ物を単体でしか食べない獣たちでは手に入らない特権だ。顔も知らないご先祖さまたち、おいしい食べ方を開発した人たち、今日も私たちの腹と心を満たしてくれる食べ物たち、ありがとう。
そういう連々と紡がれた糸のような歴史もひっくるめて、この言葉が発せられるのだ。そういう意味ではこれは儀式であり、あらゆるものへの祈りであり、人間としての正しい所作ともいえよう。

「いただきます」

碗に盛りつけた三分ほどに搗いた米、その上に乗せられた数切れの漬物、焼いた猪肉、ノビルと豆の味噌汁。
これが神の供物として適切かどうかは、それこそ神のみぞ知るところだけど、私的にはまったく問題ない。うまい、おいしい、おかわり欲しい。こうやって人間だった頃のちょっと贅沢な食事を満喫できるなんて、わざわざめんどくさい方法【大きな集落から派遣された巫女を装い、村長や有力者に「供物は人間の生娘ではなく、人間と同じ食事を望んでいる」との神の言葉を伝えて回る~説得力の補強のために、早々に予言しておいた崖崩れを起こす自作自演を添えて~】で供物を指定した甲斐がある。
もっと具体的には、
「おほん、えー、君たち、そう人間である君たち。君たちはこの地を治める神を大蛇とか大猪とか大猿とか、なんかそういうのだと思っているみたいだが、この地を治める神は人間とよく似た姿をしているのだ。よって生贄など食べないのだ、人間が食べるものと同様の、その中でもちょっと贅沢なくらいの食事を運ぶように。別に毎日でなくてもいいので、むしろ季節ひと巡りごとに一度生贄送られるよりも、数日に1回ごはん貰える方が嬉しいから。詳しいことは後日、村を訪れる巫女から話を聞くように。では、帰って良し!」
といって、生贄に選ばれたちょっとどころか相当ふくよかな娘を追い返すという、手の込んだ前準備もしておいた甲斐がある。
ありがとう人間たち。このまま神への信仰を忘れずに過ごして欲しい、毎日おいしいご飯を食べさせておくれ。

それにしても人柱文化など、都では廃れつつあるというのに。これだから田舎は、なんて思いつつも、でも都の方ではふくよかな女ほど美人だといわれているので、そこら辺は人柱文化の名残かもしれない。捧げる生贄の肉をなるべく増やしておくことで神の機嫌を損ねないように配慮しつつ、ふくよかであることは美しいことであると信じ込ませて生贄を拒否させない小賢しさ、まったく人間というものはいつになっても変わらないというか。
進歩するのはごはんの美味しさだけだな、ああ、今回もうまいなあ、ごはんごはん。
猪肉を上に乗せて脂を吸わせただけなのに、米というものはどうしてこんなに美味しくなるのか。もしこの世の神の中で一番えらい神を決めるとしたら、米を作りだした者に違いない。猪肉かもしれない、味噌も捨てがたい。とにかく食べ物に関する神が一番えらい。ありがとう神、私も神になった身ではあるけれど。

そう、神となった身なれど、やはり美味しいものを食べる喜びは必要だし、この特権はどう足掻いても捨てられない。
本来神は別に飲まず食わずでも死にはしない。老いることもなければ病むことも朽ちることもない。そもそも別に人に似せた形を保つ必要もないのだけど、今もこうして人のふりをしながら過ごしているのは、食べるという行為を楽しみたいからだ。


          


あれはまだ私が人間だった頃のこと。
私はよくある集落のよくある出来のいまいちな小娘で、よくある集落はよくある天災に襲われがちだったので、まあよくある流れで生贄に選ばれた。集落の人たちも私も、天災は土地を治める神の怒りだと思っていて、人間を供物として捧げたら怒りを鎮めてくれると考えていたのだ。
生贄に選ばれた私は神に失礼のないように、日々神への祈りを捧げる練習をしたリ、普段は長老とかしか使えない池で沐浴をしたリ、なるべく穢れのない服を着たりして、それなりの身なりになって神の居場所へと運ばれた。生贄に選ばれることは誉れだけど食べられるわけなので、ちょっと怖いなという気持ちはあったものの、私は生贄としての役目を全うするため取り乱したりすることなく山へと入り、ついでに神においしい食事も食べてもらおうと最後の晩餐をそのまま持ち込んだのだ。

「神様、供物をお持ちしました。此度の供物は私です、食べ応えがないかもしれないのでこちらもお持ちしました。これは私たちが食べている中では、かなり豪華な食事です、お納めください。そしてお怒りを鎮め、この地の民に豊かな実りをお与えください」

私が頭を垂れてお食事を捧げていると、森の奥から現れた天を突くような大蛇様が、まず初めに味噌を溶いてワラビやゼンマイと一緒に煮た汁をひと舐めした。この地の神は大蛇様であり、大蛇様に限らず蛇は昔から水神や龍の化身と信じられていて、洪水や大雨、土砂崩れなど水に関する災害はすべて、この大蛇様が起こしていると考えられていた。
それはそれとして、蛇は味噌汁を舐めて目に見えるほどの驚愕を表し、
「なんだ、これは……!? こんな旨いものがあるのか!?」
なんとなく私のような人間にも伝わる言葉というか、直接頭の中に語りかける思念のようなものというか、とにかくそういうもので伝えてきたのだ。
神が喜んだと誇らしい気持ちになった私は次から次へとお食事を勧め、磨り潰した木苺の実を粉にした麦を練って平たく伸ばして焼いたものに添えると美味しいとか、味噌汁と米は交互に食べると美味しいとか、鹿肉に味噌を乗せて米と一緒に食べるともっと美味しいとか、調子に乗ってベラベラと神に講釈を垂れてしまったのだ。
「わっ、失礼しました。人間ごときの私が神様に馴れ馴れしくしてしまい……」
ふと我に返って、これはとんでもなく失礼なことをした、もしかしたら人間がえらそうにこの土地を滅ぼしてやる、なんてお怒りになったら大変だと慌てふためいていると、神は瞳から大粒の涙を流し始めたのだ。
「あの、神様……?」
「こんな美味しいものがあったなんて、神生だいぶ損した……!」
神生というのは『人間の一生が人生とするならば、神の今まで過ごしてきた時間は神生というべきだ、よってそう呼ぶこととする』という神の造語なのだけど、どうやら神はこれまで生贄として別に旨くもなんともない人間の丸呑みだとか、生のまま毛皮すら剥いでいない鹿とか、そんなものばかり食べてきたので、自分の知らないところで人間がこんな美味しいものを食べていたのかと驚愕してしまったのだという。
おまけに神は蛇の姿をしていて箸も使えないし料理も出来ない、食べ物を上手く混ぜ合わせることも出来ないので、どう頑張ってもここまで美味しいものを作ることは出来ない。災害を起こすのは容易いけど、自らを喜ばせる一碗を作ることは出来ないのだと嘆き、どったんばったんと地響きがするほどのた打ち回り、やがて何もなかったかのように起き上がった。

「おい、人間の娘。名は何という」
「いや、特にないですね。その辺の下っ端の家の五女とか、そんな呼ばれ方をしています」
「では、名もなき娘よ。お前は今から我の依り代となり、新たな神となるのだ。そして美味しいものをたくさん食べるのだ」

そうして私は大蛇様に丸呑みにされ、気がつけば巨大な抜け殻だけを残した蛇のお尻の部分から這い出て、この地を治める次の神として生まれ変わったのだ。
ちなみにあれっきり神の声は聞こえてこないけど、なんていうか感情とか考え方とか、そういうものがすっかり人間だった頃から遠のいた気もするので、うまいこと私の中で混ざっているのだと思う。


          


「ごちそうさまでした」

今回も美味しい料理だった、ありがとう人間、ありがとう食材たち。
私は満腹感と満足感でいっぱいなうちに木簡に筆を走らせる。少し前まで生贄に選ばれたふくよかさんを言伝に使っていたけれど、ふくよかさんは生贄から外れたことで食生活が質素となり、見る見るうちに痩せて程よい健康体に戻り、そうこうしている内に集落の男と結ばれて子を成し、子育てに忙しくて神どころではなくなったので、わざわざ木簡に次に食べたい料理を記してやっているのだ。神の手を煩わせるとは人間たちめ、まったくもう。

・ごはん
・焼いた川魚
・野菜の漬物
・野草入りの味噌汁

料理の絵を記した木簡を神の領域と集落の境に飾られた注連縄に括りつける。これを見た集落の者が料理長に伝え、翌日の昼頃には私のごはんが用意される、しかも互いの領域を侵すことのない実に画期的な仕組みだ。この仕組みは長い時を経て、文字の普及や貨幣の流通と共に洗練され、後の世で居酒屋の壁に飾ってある木札へと変化していくことになるのだけど、私が元祖だなどと言うつもりはない。
なんせ人間たちの料理に対する拘りは、神である私も思わず頭を垂れざるをえないくらいだ。最初にナマコを食べた人やフグの調理法を確立させた人には、神とか人の立場を超えた敬意を払っている。ありがとう人間、また私をびっくりさせるような料理を開発してくれ。


「いただきまーす」


それにしても世の中、便利になったものだ。
いつ来るかわからない供物を待たずとも、町まで下りれば24時間365日、どこでも美味しいものが食べられる。人と話さなくても食券を買えば注文できるし、最近はタッチパネルとかスマホ注文なんて出来る、気がつけば時代が訪れてしまった。私は神だからスマホは持ってないけど、それを差し引いても便利になったものだ。人間の食べ物に対する情熱は、いつの時代も神を驚かせてくれる。
いやね、中には昨今のご注文システムには情がないなんて宣う人間の老人、神である私からしたらひよこも同然の若者の範疇だけど、そういう老人もいるけれど、誰が作っても一定の美味しさを保てる現代の食事というのも捉えようによってはありがたい。なんせ外れがないのだ、どれも美味しい、それ即ち素晴らしい。
人間から神への信仰心が薄れている時代だからこそ、そういう質を担保してくれる食事には特有のありがたみがある。今の時代、生贄を捧げるなんてことはよっぽどの狂人以外は誰もしないし、わざわざ神に供物を用意したりもしない。お地蔵さんにはお饅頭をお供えするのに、そこらの猫や鳩だって餌をもらえるのに、神の扱いが畜生以下とは少し寂しくもあり悲しくもある。
「うん、うまい」
和風おろしハンバーグと白飯、味噌汁のセットに箸をつけながらしみじみと思う。そう簡単に死ぬことのない神の身であっても、食べることは生きることに等しい。おいしいご飯を食べることは、豊かな神生を送ることと同義だ。人間の創造する神の多くがどうして人の姿をしているのか、昔はあまり考えもしなかったけど、きっと食材同士を組み合わせる人間だけの特権を本能的に捨てきれないからだ。だから神も人と分け隔てなく、むしろ綯い交ぜに同じ喜びを味わえる姿であって欲しいと願ったのだ。
要するにだ、私は今とっても混ぜごはんが食べたい。

「どれにしようかなー?」

私はテーブルのタッチパネルを指先で叩きながら、炊き込みごはんのページを開いてみせた。


(つーづーくー)

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