いただきます、の歴史は古い。 時間をさかのぼったわけじゃないから知らないけど、人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思う。もしくは自然への感謝、太陽への畏怖かもしれないけど、その辺りはどうでもいい。大事なのは食べ物への感謝だ。 食べるものがあるというのはありがたい。長く生きてると飢饉や天災は避けて通れない、やつらはいつだって人間の前に立ちふさがるし、畦道に現われる猪のように通せんぼしてくるのだ。遠い将来、もしかしたら世の中から飢えという概念が消え去る日が来るかもしれないけど、それでも人も獣も魚や虫でさえも生きている限りはおなかが空くし、食べ物への感謝を忘れることはないと信じている。仮に食べ物を粗末にするような愚か者が現れたら、そんなやつは滅んでしまえばいい、すべからく。 ところで人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思うってさっき思ったけど、人間の最初の発明は食べ物を組み合わせることだと思う。思うというか違いない。おそらく最初は蛇か鳥かなにかの生肉に果物か野草を混ぜた、とかそんなだと思う。海の方に住んでたらそれが魚と海藻に変わるけど、そこら辺の地域差は似たようなものなので気にしない。どちらにせよ、きっとそこに大きな感動があったはずだ。 さらに塩とか醤とか味噌なんて開発しちゃったものだから、それを肉や野草に塗りつけた時の感動なんて、もはや驚愕とか驚天動地とか天変地異とか、それくらいの圧倒的な強さがあっただろう。 『肉、うめぇ……!』 おそらく誰しもがそんな言葉を頭に思い浮かべ、涙を流しながらがっつくように頬張ったに違いない。頭の中でなにか爆発したというか、変な汁とか出てそうな、それくらいのうまさを感じたはずだ。食べ物を単体でしか食べない獣たちでは手に入らない特権だ。顔も知らないご先祖さまたち、おいしい食べ方を開発した人たち、今日も私たちの腹と心を満たしてくれる食べ物たち、ありがとう。 そういう連々と紡がれた糸のような歴史もひっくるめて、この言葉が発せられるのだ。そういう意味ではこれは儀式であり、あらゆるものへの祈りであり、人間としての正しい所作ともいえよう。 「いただきます」 碗に盛りつけた三分ほどに搗いた米、その上に乗せられた数切れの漬物、焼いた猪肉、ノビルと豆の味噌汁。 これが神の供物として適切かどうかは、それこそ神のみぞ知るところだけど、私的には...