三界廻って碗~第4話 ヤマアラシの山暮らし~
「ここから先は神の居場所だ。村の子は村へ、山の子は山へ、君たちは君たちの居場所に帰りなさい」
この世界は三つに分かれている、なんていうと言い過ぎかもしれないけど、少なくとも私のような土着の神が住まう山は三界に区切られている。
ひとつは山のふもと、人間たちが住まう農村。ひとつは村と山の境に飾られた辻切りよりこちら側、神や物の怪、そういった類の住まう世界。その狭間、人の縄張りでも神の領域でもない山。この三つは開拓したり禁じたり、朽ちたり、滅びたり、雨で濡れた地面に生えた水溜りのように時代時代で形を変えて、大きくなったり小さくなったり歪んだりしながら、全国津々浦々……津も浦も海のものだから、この場合は山々岳々? いや、ちょっと響きが強いな。林々森々? いやいや、大陸で最近見つかったパンダとかいう生き物じゃないんだから。とにかく全国各地の山々は、どこも似たような形に分かれて成り立っている。
ここしばらく私が過ごしているお山もその例に漏れず、山道を下った先には貧しいながらも農村があり、山へ入ると土地神を祭る祠や屋代があり、あちこちに山暮らしの親子連れや集団がいたりするのも、まさにそうだ。
彼らは家を持たない代わりに木々の間に天幕を張って雨を凌ぎ、普段は川魚や山菜を食べているけど、時折人里に下りて竹や蔓でこしらえた籠や農具を売って、金の代わりに米や麦を手に入れてくる。あと服とかも。その時は村はずれの神社や寺に泊まっていることもあって、たまに神のために作られた屋代や祠に身を寄せることもある。
そんじょそこらのケチな神なら追い出すのだろうけど、私は土地の民に優しい心の広い神である。それに元は人間だった身、雨風を凌ぐぐらいの許しは与えてやっても罰は当たらない。そもそも神だから罰は当たらないけど、気分的な言い回しというやつだ。
それに、そもそもの話、
「……ちく? なみ? 読めん」
この山に住まう神は元々私ではない。じゃあなんで私がこの山にいるのかというと、私が本来祀られていた土地は随分と昔に飢饉と戦で滅んでしまい、土着の神ならぬ根無し草の神となってしまったからだ。祀る神がいなくては土地は滅ぶ、かといって祭ってくれる人がいなくても土地は滅ぶのだ。それに食べ物がなくては腹も減る。神の身なので飲まず食わずでも死ぬことはないのだけど、私を神へと変えた先代は生贄を貪る大蛇、それも底なしのうわばみだったのだ。食べることは生きることに等しい、なので飯を食べずにはいられない。
というわけで、あっちへふらふら、こっちへひょこひょこ流れに流れて、今はこの土地で代理の神なんかやっている。昨今は廃仏毀釈とか神仏分離とかいう考え方が流行っていて、その流れで神の拠りどころも少なくなってきた。神も崇め奉られる存在から、もっと身近で親しみやすい存在への変革が必要なのかもしれない。それにあくまで代理なので、屋代を荒らす不届き者ならいざ知らず、雨宿りをするくらいなら構わない、という施しの心づもりで代理を務めているのだ。
「おこめだ、おこめだ」
「ゆっくり食え。貴重な米だからな」
それに私も元は人間。家族が貧しいなりに同じ釜の飯を食べる姿には、微笑みのひとつも浮かべてしまうものなのだ。いちいち姿を隠すのは、ちょっと面倒ではあるけれど。
―・―・―・―・―・―
そんな山の暮らしのある日のこと、山では見慣れぬ少年が迷い込んできた。少年は年の頃は十五かそこらで、この辺では珍しく整った身なりをしていて見るからに利発そうな、いわゆる裕福な家の子といった少年だった。どうしてこんな山に迷い込んできたのか知らないけど、この山に住まうやつらの中には真っ当に生きれない罪人まがいの輩もいる。そんなのに出くわされても面倒だ、厄介事を起こされる前に帰してしまおう。
「おい、少年。ここは君のような村の子が来る場所ではない。おうちに帰って、味噌汁とおにぎりでも食べるんだね」
そうせっかく告げてあげたのに、少年は鳩が豆鉄砲をくらったように目を丸くして、ぱくぱくち口を開けたり閉じたりしている。
「……た」
「た?」
「ほんとにいた! 山人だ!」
確かに私は人とほとんど同じ姿をしているし、実際にこうして山にいるから山人といえなくもないけど……いや、そもそも山人ってなんだ? 少年の造語か?
「すごい! いつもはなにをしてるんだ? 食べ物は? 家はどこに?」
「ええい、うるさい!」
目を輝かせながら服の袖にしがみつき、次から次へと問いを捲し立てる少年を振りほどく。なんだなんだ、発情期か? これだから年頃の男子は……いくら私が親しみやすい神といえど、それでも神なわけなので。
「失礼! ぼくは山ふもとの川べりで、家には兄さんが医者で、山のことを調べていて、結構遠くて」
「……とにかく落ち着け。そうだな、一旦そこの石にでも座りなさい」
わたわたと慌てている少年を落ち着かせて、屋代の中から汲み置きしておいた水と湯呑を渡し、やれやれと半ば困ったような溜息を吐いてみせた。
この少年は山から歩いて半日ほどの距離にある川べりの集落で暮らしていて、開業医である年の離れた兄の家に身を寄せているそうだ。元々裕福な土地から来たこともあって、この辺りの貧しい農村の生活に強い衝撃を受けて、お隣の家の蔵書を片っ端から読み耽ったり、村長や神社の神主に色々と聞いて回ったりと、これまで蓋をしていた好奇心が爆発してしまったのだという。
そして若さと衝動に身を委ねた結果、時折山からやってくる不思議な家族の生活に興味を抱き、気がつけば山に入り込んでしまっていたらしい。
「なるほど。いいか、少年、そんな調子だと死ぬぞ!」
「死……!?」
好奇心猫をころす、という言い伝えもある。世の中には好奇の目を向けられて喜ぶものもいなくはないけど、大抵の場合は何見てるんだ何の用だ金を払え、といった反応を示す輩がほとんど。せめて相手を反発させない立場と肩書を得ておかないと、裏の辻に連れ込まれてボコボコにされて浮かばれないことになってしまう。もしかしたら溝に浮かんでいるかもしれないけど。
「そうか、山人は危険な集団なのか! いや、危険というのは違うかもしれない、山には在野と異なる決まりごとがあるに違いない」
少年は鞄から取り出した帳面を開き、でっかい独り言を口走りながら鉛筆も走らせている。いっそのこと足も走らせて、山から下りてくれないかなと思わせる勢いで、これは中々に手強いぞと首を捻っていると、
「え? 誰?」
屋代に忘れ物でもしていたのか山暮らしの一家の少女が戻ってきて、主に少年を見て疑問の声を上げた。
ここに好奇心旺盛な村の少年、その対象となり得る山暮らしの少女、ついでに人の姿をした土着の神という、おおよそ出くわしてはいけない組み合わせの三人が揃ってしまったのだった。
人間の好奇心は元より際限がないようなもので、それは食事の点からでも常軌の逸し具合はよくわかる。なんせ無数の犠牲者を出しながらフグの調理法を見出したり、ナマコを食べたり、豆を腐らせてみたり、牛や山羊の乳を発酵させてチーズにしてみせたり、どうしてそこまでというくらい追求するのだから、食べ物以外への好奇心もそれはそれはすさまじいものがある。
少年は山暮らしの少女への好奇心を爆発させ、少女もまた村で暮らす少年への興味を募らせた。それがいわゆる甘酸っぱい類の感情に変化するのは時間の問題で、ふたりは数日に一度は互いの保護者の目を盗んでこっそりと逢瀬を重ね、それぞれの暮らしを語り合ったりして蜜月の時というのを過ごしていった。
ん? 私? 私はあれだよ、ふたりが遭遇して半刻ほどで後は若いふたりでどうぞ、という仲人さんみたいな立ち振る舞いで逃げた。なんせ見た目こそふたりとそう変わらないものの、中身は数百年、いや千年を優に超える歳月を生きる神なのだ。きゃっきゃうふふと胸躍らせる若者についていける程、若々しいわけでもないのだよ。
むしろ山暮らしの一家の柱である父親、そっちの方が話が合うかもしれない。
さて、その山の親父、手先と釣りは得意だけどいまいち勘は鈍いようで、
「おい、はな。お前、変なことしてねえよな?」
「してないよ。ほら、ちゃんと籠だって編んでるし」
「ならいいんだがよ」
といった具合にはぐらかされて、ぬぅんと鼻息を放ちながら手元の木を削っている。決して悪い人間ではない、鈍いけど地味に働き者ではあるのだ。
彼だけではなく彼ら山の一家は晴れの日には蟻や蜂のように働き、身動き出来なくなる雨や雪の時期に備える。魚を獲って干物にし、山菜を集め、木や竹を加工しながら夜まで過ごして一日を終える。山暮らしの世界は本来山の中で完結するもの、人里に下りるのは足りないものが出た時くらい。なるべく山の外との接触を拒み、その一生を山の中で終えるのだ。
「ねえ、お父ちゃん。今度はいつ山を下りるの?」
「おめえや母ちゃんは連れて行かねえぞ。人里は怖いところなんだ、なにされるかわかったもんじゃねえ」
これもまた道理で、山暮らしの元を辿れば当時の朝廷と相容れなかった豪族や真面目に働けなかった山賊、戦に敗れた落ち武者、人間の世界から逃げ出した罪人、そういったまつろわぬ民も山は抱えていたのだ。そりゃあ人里は山から下りてくるものを警戒するし、自分たちと異なるものを排除しようともする。逆もまた然り、山暮らしの中には人攫いや追いはぎのような生業で暮らす一派もいる。要するにどっちもどっちなのだ。
そういう経緯もあって山暮らしは山暮らし同士、別の家族から妻を迎えたり、別の集団に嫁を出したりして家族を維持して、基本的に山の外とは混じり合わない。中には人里の暮らしに憧れて山を下りる娘もいるけれど、文字を持たず読み書きも出来ない者の末路は哀れ。大体が遊女へと落ちて、狭い籠の中で生きて病で死ぬ。そして魂だけが山へと帰ってくるのだ。
と、先日魂となって帰ってきた別の山の女が語ってくれた。生者とも死者とも語り合えるのは神と巫女の特権だけど、これいるかと問われれば、まあ別にいらないかなあ、としか。
「ねえ、巫女様、聞いてよ。お父ちゃんが村に連れてってくれないの」
「はなちゃんを心配してるんだよ、たぶん」
はなというのは件の山暮らしの一家の娘で、私は彼女の前でだけ姿を現して、この辺りの神社で神に仕える巫女と称している。神だと名乗っても大体は頭おかしいと思われるから、世の中というものは世知辛い。まぎれもない神だというのに。
はなちゃんもそろそろ他の山の一家に嫁ぐか考え始める年頃だけど、肝心の本人の気持ちは村に向いてしまっているらしい。せめてもの慰めとして、私なりの里の知識を聞かせてあげてるものの、私が知っていることなんてうまい蕎麦屋くらい。まさに箸にも棒にもかからないような、いや、箸があれば蕎麦をすすれるのだけどもね。とにかく好奇心旺盛な少女を満足させることは叶わない。
「ねえねえ、巫女様が連れてってよ」
「だーめ。この辺は物騒な村が多いからね」
少年の身なりのせいで勘違いを起こしそうだけど、この辺りの集落は貧しい。貧すれば鈍するどころか、貧したら悪事に走るのが人間というやつなので、見慣れる少女ひとり村に下ろしたら何をされるか分かったもんじゃない。この少年が追いはぎに遭わないのは、彼を養っている兄がこの辺りでは貴重な医者で、村人たちにとって目先の金よりも必要とされているからに過ぎない。
「それにだね、はなちゃん。女というのは男に足を運ばせて一人前なのだよ」
「……おお、大人だね」
いや、まあ知らないんだけど。そうなんじゃないの、たぶん。こうやって納得して山にいてくれるなら、嘘や出任せも方便というものだ。
―・―・―・―・―・―
「なるほど、あの辺の山にはそんな祭りがあるのか」
一方、少年にも困ったもので。なんせこの少年、恋のひとつでもすれば大人しくなるかと思いきや、温泉のように湧き出る好奇心に歯止めがないのか、はなちゃんの家族に取材を試みようとしたり、山暮らしでさえも近づかない禁足地に踏み込もうとしたりと、とにかく大変なのだ。生まれた時代や家柄が違えば、おそらく立派な狂人として座敷牢にでも閉じ込められていたに違いない。
せめて山を踏み荒らさないように、私がこれまで巡ってきた集落の風習を出し惜しみしながら語ってあげたり、時にでっち上げたりして、その好奇心を上手く抑えつけている。
「少年、君の将来はきっと変人か、うっかり大物になってしまった変人のどちらかだろうね」
「それ、褒めてるつもりなの?」
褒めてはいない、褒められたければ褒められるなりの落ち着きを見せてくれ。かといって貶してもないけど。
「ところで少年、君はこうやって暇さえあれば山に来ているわけだけど、山で暮らすつもりはないんだよね?」
「ないね。両親や兄さんたちが許さないだろうし、それに山には本がない」
ちょっとお節介ばあさんの真似事なんてして問うてみたけど、どうやら余計なお世話だったか。もし人の世界を捨てて山に入る、と言い出したらどうしようかと思ってたけど、端からそんなつもりもないなら話が早い。
「であるならば、先生ごっこはここまでだ。もう二度と来てはいけないよ」
「いや、来るよ。だってまだ調べたいものが沢山……むぐっ」
私は少年の口元に掌を運んで顔の下半分を軽くポンと触るように押し、掌の上でふよふよと浮いていた水の塊を飲み込ませる。私は大蛇に食われて神となった身、そして蛇は古来より水神とされている。別に雨を降らせたり洪水起こしたり出来ないけど、ちょっと水を操るくらいの手品みたいな真似なら出来る。もちろんそこらの川や池と同じただの水だ、害はない。
「少年、実は私はとある地方の土着の神でね、今しがた飲ませたのはちょっと特別な水なのだよ」
目を丸くする少年の前で、伸ばした黒髪の先をくるりと丸めてとぐろを巻いた蛇のように形を変え、さらに地面に映った影を人のそれから大蛇へと変えてみせた。これもまあ神の力といえばそうで、動かしたからどうなるってものでもないけど、説得力を持たせるくらいなら事足りる。
「少年、私は君にひとつ禁を与えた。もし明日からも山に入りたければ何かひとつふたつ、好奇心以外のなにかを用意してくることだ。さもなくばその水は君の体の中で暴れ回り、血肉を貪り大蛇となって君の腹を食い破るだろう」
もちろん普通の人間は信じやしないだろうけど、目の前の少年は普通ではないので信じるはずだ。なんせ少年は山の魅力に毒されて……いや、もっと広い意味での風土病に侵されている。不思議に魅入られ、知識と歴史を欲し、神や怪異を信じている。だから私のついた小賢しい嘘でも、信じないはずがないのだ。
「さあ、失せろ失せろ。人は人の世界に帰りなさい」
私は顔を青くして山を下りていく少年の後ろ姿を見送り、ひと雨降りそうな黒い空を静かに見上げた。
どのみち嘘を信じようと信じまいと、少年はこの山で暮らす民の世界には二度と踏み込めない。
夜の内に山は大きな雨風に襲われて、ぬかるんだ地面は底までしっかりと水を染み込ませて、災害といってもいい規模の土砂崩れを巻き起こした。私が身を寄せていた屋代への道は閉ざされ、人の足では到底越えられない崖の上に取り残されることとなった。この崩れた山道は新たな辻切りとなって人の世界と山の世界を区切り、儚い少年と少女の恋とやらもここでお仕舞い。文字通り住む世界が違うというやつだ。
「巫女様、だいじょ……うわぁ! すごい崩れてる!」
「私は見ての通り、だいじょ、うわぁすごい崩れてるってところだよ。ここはもう駄目だね、参道が完全に途絶えちゃった」
律儀にも私の様子を見に来た少女に向けて、わざわざ指を差すまでもない崩れ具合を説明してみせた。
いずれ地固まって草木が生えて獣に踏み鳴らされて道が出来るかもしれないし、信心深い連中が梯子や縄でも掛けてくれるかもしれないけど、どのみち5年10年でどうにかなる話でもない。その間に神を祀る場所としての土地は死んでしまい、人の手入れの入らない屋代などあっという間に山に飲み込まれてしまうだろう。
そんな場所に長居する理由も義理もない。根無し草の神は身軽が身上なので、ふらりとどこか別の場所にでも腰を下ろそうか。
「道がこれじゃ少年とはもう会えそうにないけど、まあなんだ、残念だったね」
「うーん、残念だけど、まあ大丈夫かな」
おや、ぴいぴい泣き出したら秘蔵の蜂蜜でも舐めさせてあげようと思ってたのに、お節介ばあさんの真似事はここでも不要ときた。
「だって、貰えるものは貰ってるから」
「……んん?」
少女はお腹を擦りながら年相応にニヤッと笑い、遠くで呼ぶ家族の声に応えて山の中へと消えていった。
「やることやってたんかい」
まったく人間というのは油断も隙も無いというか。
―・―・―・―・―・―
その後の少年少女のことはよく知らないけど、他の山暮らしから聞いた話では、それらしき女はその時の種か、はたまた別の種なのか、何人かの山暮らしとの間に5人ほどの子を産み、四十半ばでこの世を去ったという。その子孫たちは時代の流れに抗えず生活の糧を求めて山を下り、貧しいなりにも逞しく生きたとか、鼠のように小狡く生きたとか聞くけど、もはや噂の域を出ない話だ。
少年は好奇心以外に強く思うものを得たのか、再び山に入ったとも各地の風習なんかを調べて回ったとも、調査を記した文学のようなものを嗜んだとも耳にしたけど、それもまた風の噂のような話で、当人なのか似たような同好の士の話なのかわからない。
そもそも随分と古い話だし、今となっては山暮らしの一家のような者など途絶えてしまっているので、どっちみち私にはわからない話だ。
「今日は山菜おこわにしよう。あとタケノコ天と蕎麦かなあ」
それにしても平凡なスーパーのお惣菜コーナーでもうまいのだから、いつの時代も山の恵みというものは侮れない。たまには懐かしい山にでも立ち寄ってみようか、と思わなくもないけど、全国どこもアスファルトで踏み固められて、チェーン店とコンビニがポツンと佇むようになってしまったこの世では、あの山がどこのなにだったのかさっぱり見分けがつかなかったりするのだ。
迷子になっているわけではない、そもそもわかってないだけで。
(つーづーくー)