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小説・目次

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主に長編の小説を掲載しております(のんびりぼちぼち更新していく予定) 以下、主な長編シリーズ ▶ 三界廻って碗(連載中) 土着の神様と綴るヘンテコ民俗学小説 ▶  ラニーエッグボイラーシリーズ(完結) 空中に浮かんだ卵と、卵が見える人たちの非合法・有暴力・闇鍋群像劇 ▶  共食魚骨・断編集「魚の骨は猫でも食べない」(完結) ラニーエッグボイラー外伝、死神ヨハネこと共食魚骨に関する断片集或いは断編集 ▶  とある竜たちの話(完結) いわゆるファンタジーのドラゴンたちとはちょっと違った竜たちのお話 ▶ 彼女は狼の腹を撫でる (工事中) 狩狼官の少女ウルフリードが失踪した母を探して旅する本格ファンタジー大長編 <二次創作> ▶ ぷかぷか!メガロドン海賊団航海記(完結) 世界樹の迷宮Ⅲリマスター・大航海オンリー二次創作小説、海賊マイラの波乱の航海記! ▶  山田とゴリラ(完結) 世界樹の迷宮Ⅱリマスター・日記風二次創作プレイ記、山田とゴリラの二人旅。  ▶ 三つ首輪の犬と戦斧(工事中) ガンダムの二次創作小説、地球に降下したジーナの辿る数奇な運命とは……!? 

三界廻って碗

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<土着の神様と綴るヘンテコ民俗学小説> ▶  第1話 かみのみそしる ▶  第2話 賽の河原独立宣言 ▶  第3話 道祖神VS夕暮れイエロービースト ▶  第4話 ヤマアラシの山暮らし ▶  第5話 にゃんにゃーどやどやネコと和解せよ ▶  第6話 つちのこのこのこ元気の子 ▶  第7話 こまごました神とゴマゴマ炊き ▶ 

三界廻って碗~第7話 こまごました神とゴマゴマ炊き~

神の身となって優に千数百年、未だお目にかかったことはないけど、米粒には7人の神がいるという。3人と聞いたこともあるし、88人もいるともいうし、一説には100人もいるのだとか。そうなると米粒には3人から100人ほどの神が宿っていることになるけど、八百万の神も実際に800万人いるわけではないので、数の幅はちょっとした物の例えというやつだ。 「だいたい米粒ひとつに100人も神がいたら、この世界、人間より神の方が全然多いことになるじゃないか」 なんて笑いながら今朝も朝ごはんを食べたわけだけど……まさか一眠りして目を覚ましたら、部屋を数十のちちゃい神で埋め尽くされるなんて予想するわけがない。 「……それで、お前らなんなの?」 「あっしらはゴマ粒の神。なあに、ちょいと野暮用があってここに来たんでごぜえやす」 さすが八百万の神々の国、どうやら米粒ではなくゴマ粒の神々なのだそうだ。姿は端的に表すと三度笠を被った豆もやし。縦は私の肘から指先、横幅はぎゅうっと握れそうな細さで、茶色い唐草模様のマントみたいな布切れを羽織っている。実に珍妙な姿をしていて、もしかすると人間の姿のまま神となった私や先代の大食らいの大蛇なんて、神の中ではかなり真っ当で平凡な部類の神なのかもしれない。 「それでゴマ粒の神が、うちに何の用?」 この珍妙な神が小さいとはいえ、我が家はそう広くないのだ。今時珍しい大家に現金手渡し式、家賃2万円の築数十年1DK、ひとりで過ごすには十分だけど客神招くほどの余裕はないのだ。それも数十人、いくらゴマが細々した食材だからって多すぎるだろ、とツッコミのひとつも入れたくなる。 とはいえ私の神だ、客にお茶くらい出してあげる寛容さと礼儀は持ち合わせている。手頃な鍋に麦茶をドバドバッと注いで丸ちゃぶ台の上に乗せると、餌を食べる猫の群れみたいに一斉に鍋に顔を突っ込んでいく。いや、そんなかわいいものではなく、豆もやしの群れなんだけど。豆もやしも見ようによってはかわいく見えないこともないのかな。 あっという間に空になった鍋の前で、豆もやし共は深々とお辞儀をして、 「ありがとうごぜえやす。と言いてえとこなんですが、あっしら愉快な用事ではねえんでげす」 お茶でお腹が張ったからか豆もやしの細の部分が真ん中あたりで丸く膨らみ、その影響なのか雑なべらんめえ口調がさらに崩れている。 「あっしら釘を刺しに来た...

三界廻って碗~第6話 つちのこのこのこ元気の子~

神の身である私にも苦手なものは存在する。 冷めてカチカチになったお供え物のおにぎりやお饅頭ではない。いや、あれはあれで辛いものがある。せっかくなら食べ物はふわっふわな美味しい姿のものを食べたいものだ。でも今は冷めたお供え物の話はしていない、見世物小屋の蛇女のことを言ってるのだ。 見世物小屋そのものは別に苦手ではない。どちらかというと好奇心旺盛な神である私は、土地の民に混じって見世物小屋の出し物に一喜一憂した。お化け屋敷でぎゃーぎゃー喚いてみたり、機械仕掛けのからくりを眺めたり、海外からやってきたというふれこみの珍しい鳥や獣を意外とかわいいなって思ったり、私の倍ほどもありそうな巨人や私の半分ほどの背丈の小人、腕のない缶児の器用な芸達者ぶりに感心したものだ。もちろん見世物小屋なので、大鼬と称して戸板に血を垂らしたものなんかを出してきたりもするので、その時は酔っ払いに混じってありったけの罵声を浴びせたりもした。 そういうわけで見世物小屋そのものには割と好意的なんだけど、蛇女だけはちょっと苦手なのだ。 蛇女とはその名の通り、生きたままの蛇を食べる女のことで、蛇の皮を剥いだり生き血を啜ったり、その身を齧ったりする。こういうと大したことなさそうに聞えるけど、私を飲み込んで神にした先代が大食らいの大蛇だった影響か、蛇が食べられてる姿だけはなぜか苦手で、見てると背中がぞわぞわとしてしまうのだ。 ちなみに蛇小僧という全身が魚のような鱗に覆われた見世物もあるけど、そっちは別になんとも思わない。しいて言えば服着る時に大変そうだなーくらいで。 ◎ ◎ 「おい、あんた。そこのあんた」 「……なに?」 ある日のこと、私がいつものように蕎麦でも食べようかとプラプラ歩いていると、見世物小屋の蛇女が声を掛けてきた。蛇女は年の頃でいえば若くて30手前、年嵩に見ても40には届かないくらいで、1000年以上を生きる私からしたら小娘の部類だ。見た目は私が小娘にしか見えないのだけど、それは生贄に捧げられた年齢が年齢だったので仕方ない。50を過ぎた腰痛い膝痛い動くだけでつらい老体で神になってたら、もう長生きって考えただけで嫌になる。見た目ご老人な他の神は、その辺どうなってるんだろうか。神同士が道端でばったり会うことはそうそう起こらないけど、もしご老人の神に遭遇した時のために針でも持っておこうかな。 いや、今はそ...

三界廻って碗~第5話 にゃんにゃーどやどやネコと和解せよ~

この世で最も可愛いものは猫である、もしかしたら犬かもしれない、人によってはハムスターだという人もいるだろう……とにかく人間という生き物は、あの柔らかい毛に包まれた愛くるしい姿に、どうしようもなく魅了されてしまう生き物なのだ。 という一文を先日手に入れた古本で目にした。まったくもって異論はない、土着の神である身の私も、犬や猫をかわいいと思う人間らしさは残っている。というより神は誰しも人間以上に俗っぽいところがあるものなので、信じられないくらい些細なことで喧嘩をしたり、呆れるほどしょうもない理由で神の座を降りたり、どうしようもないくらい怠惰でものぐさだったり、だから当たり前に地べたに寝そべって猫の視線で猫を見つめていたりするものなのだ。 そう、いま私は路地裏で地べたに寝そべって、目の前にいる野良の割にはふっくらした姿の野良猫を見つめている。理由などない、かわいいからだ。遠くから眺めたり、近くで上から見下ろしたり、しゃがんで観察したりして、どの瞬間でもかわいい生き物なのだから、同じ目線で見てしまいたくなるのは仕方ない。通行人からしたら、中学生くらいの小娘が地べたに寝そべってはしたないと思うところだけど、私はかれこれ優に千年以上を生きている神だ。神が人目なんて気にしてどうする、むしろ人間はもっと神の目を気にしろ。お天道様は見ている、という言葉は忘れたのか? 「にゃあー」 これは猫の鳴き声ではない、私が猫に向かって鳴いてみせただけだ。猫は猫語で喋るのだから、こちらも猫語で喋ってあげるのが礼儀というものだ。昨今は日本に来ておいて日本語を喋らない外国人が増えているそうだけど、私はそんな愚かな人間たちとは違う。神なのだから当然猫には猫語で語りかける。ちなみに猫語はまったくわからない。神が全知全能だと思うな、神にだってわからないことはある。 そんな神である私の視界に、ふと奇妙な看板が入り込んだ。 『ネコと和解せよ』 猫と揉めた覚えは無いし、むしろ私は猫に好かれる方だと思うけど、どうやらこの看板によると猫と和解しなければならないらしい。和解せよ、という命令口調はどうかと思うものの、猫と和解することに不満はない。和解してみせよう、おそらくかなり末席の、神の端くれの隅っこのついででおまけの数合わせくらいのものだろうけど、八百万の神を代表して。 ᗦ↞◃ ᗦ↞◃ ᗦ↞◃ ᗦ↞◃ ฅ(=✧ω✧=...

三界廻って碗~第4話 ヤマアラシの山暮らし~

「ここから先は神の居場所だ。村の子は村へ、山の子は山へ、君たちは君たちの居場所に帰りなさい」 この世界は三つに分かれている、なんていうと言い過ぎかもしれないけど、少なくとも私のような土着の神が住まう山は三界に区切られている。 ひとつは山のふもと、人間たちが住まう農村。ひとつは村と山の境に飾られた辻切りよりこちら側、神や物の怪、そういった類の住まう世界。その狭間、人の縄張りでも神の領域でもない山。この三つは開拓したり禁じたり、朽ちたり、滅びたり、雨で濡れた地面に生えた水溜りのように時代時代で形を変えて、大きくなったり小さくなったり歪んだりしながら、全国津々浦々……津も浦も海のものだから、この場合は山々岳々? いや、ちょっと響きが強いな。林々森々? いやいや、大陸で最近見つかったパンダとかいう生き物じゃないんだから。とにかく全国各地の山々は、どこも似たような形に分かれて成り立っている。 ここしばらく私が過ごしているお山もその例に漏れず、山道を下った先には貧しいながらも農村があり、山へ入ると土地神を祭る祠や屋代があり、あちこちに山暮らしの親子連れや集団がいたりするのも、まさにそうだ。 彼らは家を持たない代わりに木々の間に天幕を張って雨を凌ぎ、普段は川魚や山菜を食べているけど、時折人里に下りて竹や蔓でこしらえた籠や農具を売って、金の代わりに米や麦を手に入れてくる。あと服とかも。その時は村はずれの神社や寺に泊まっていることもあって、たまに神のために作られた屋代や祠に身を寄せることもある。 そんじょそこらのケチな神なら追い出すのだろうけど、私は土地の民に優しい心の広い神である。それに元は人間だった身、雨風を凌ぐぐらいの許しは与えてやっても罰は当たらない。そもそも神だから罰は当たらないけど、気分的な言い回しというやつだ。 それに、そもそもの話、 「……ちく? なみ? 読めん」 この山に住まう神は元々私ではない。じゃあなんで私がこの山にいるのかというと、私が本来祀られていた土地は随分と昔に飢饉と戦で滅んでしまい、土着の神ならぬ根無し草の神となってしまったからだ。祀る神がいなくては土地は滅ぶ、かといって祭ってくれる人がいなくても土地は滅ぶのだ。それに食べ物がなくては腹も減る。神の身なので飲まず食わずでも死ぬことはないのだけど、私を神へと変えた先代は生贄を貪る大蛇、それも底なしのうわば...

三界廻って碗~第3話 道祖神VS夕暮れイエロービースト~

「いたぁい!」 人間の発明したものの中で最も偉大なものは車輪だといわれているけど、ところでこの世で最も車に轢かれているのは、猫でも狸でも人間でもなく、道祖神だ。彼らは明け方ないし夕方、或いは真夜中に道路の真ん中に鎮座する祠からひょっこりと出てきては、右見て左見て手を上げて道を横断しようとして、ちゃんと絵に描いたような轢かれ方をしている。 彼らも神なので車に轢かれたところでどうってことはないし、神はこの世のものともあの世のものともいえない存在でもあるので、人間から見えなければぶつかった車もへこんだりとかしないのだけど、こうも見事にムギュッと圧し掛かられたりポンポン飛ばされたりする姿を見ていると、いじめられる犬みたいでちょっと可哀想になってくる。 私の近所にいる道祖神は、まあまあ通行量の多い大きめの道の真ん中に建てられた、剥き出しのちっちゃい祠に祭られている。ちっちゃくてかわいらしい祠に相応しい柴犬くらいの大きさで、球体に短い4本足と2本の手が生えた小鬼のような姿をしている。古くは江戸時代からそこに祭られているそうだけど、飛脚に撥ねられ、馬車に蹴散らされ、車に轢かれて、時にはマラソンランナーの集団に揉みくちゃにされているのだ。 その都度、痛い痛いと嘆きながらぴえーんと大きな声で泣くものだから、別に小鬼が好きでもないけど愛着が湧いてきて、会えばパンの耳を食べさせたり、缶ジュースを奢ってあげたりしている。 「ひどい! 人間、スピード出し過ぎ! ゆるせない!」 「引っ越したら? ほら、道路脇の空き地に祭られてる子もいるわけでしょ?」 「駄目なの! あれは元々祠があった場所の近くに道路が出来たパターンなの!」 道祖神が短い手をパタパタと振り回しながら力説する。手が上下する度に缶の中身の果汁20%オレンジジュースがビッシャビッシャと撒き上がってるので、すっと手を添えて上下の動きを押さえる。 「祠を動かすと土地に封じた地霊が出てきちゃうの! やばい! たいへん! 無理! ってなるの!」 「やばいって具体的には?」 「土地が滅ぶ!」 わあ、そいつは大変だ。じゃあ、せめてこの道祖神が車に轢かれないように手を打たないと。 もちろん神の身である私が、人間のためにそこまでしてあげる義理はない。しかしこの道祖神のいる通り沿いには、24時間営業の牛丼屋とかコンビニとか、老舗の洋菓子店とか、こだわ...

三界廻って碗~第2話 賽の河原独立宣言~

まだ人間だった頃、今でこそ振り返ったら取るに足らないような小さな失敗をして、怒られるのがすごく嫌いで、その度に集落の近くの林の中に身を隠したりした。でも結局は父や母に見つかって怒られたりしたわけだけど、それがまた言葉で言い表せないくらい嫌で、私は同じように隠れてやり過ごそうと繰り返した。そんなだったから神への生贄に選ばれたりしたのかなと思うけど、その悪い癖は未だに治っていなくて…… 「……て? あし? いぬ? わからん!」 私を祭る祠に届いた【督促状】と書かれた矢文を眺めながら、読めないながらも内容に心当たりはあるので眉をひそめて、はぁーっとめんどくささを含めた溜息を吐き出す。 差出人には【地獄・閻魔堂】と書かれているけど、もちろんなんて書いているかは読めない。私を誰だと思ってるんだ、元田舎集落の下っ端の家の小娘だぞ。出自のいい神と同じように扱われたら困る、私にも読めるように全てにふりがなを振れ、平仮名も読めないけど。 以前、地獄からの使いに閻魔堂まで出頭するように言われて、かれこれ……まあ結構な歳月。めんどくさいとか怒られそうという理由で後回しにし続けて、ついに矢文まで送られてしまった。地獄の使いとして来た鬼が言うには、まず世界には神や仏だけが暮らす天上の世界、私のような土着の神や人間たちの暮らすこの世、死者の魂が辿り着く地獄とか天国のあるあの世があって、人間や動物の数はちょっとくらい書類と実際の数とで誤差があっても構わないのだけど、神の数に関しては相当厳しく管理しているらしい。なので新しく神が生まれたり代替わりが起きた時は、すぐに登録しないといけないのだとか。 「……しょうがない、行くかー」 結局なんだかんだと祠の周りをうろうろしたり、小屋の中をごろごろと転がって時間を潰すこと数ヶ月、いよいよ観念して一張羅の旅装束に着替えて外套を羽織り、やっぱりめんどくさいと脱いだり着たりを繰り返しながら死出の旅路を歩き始めた。 ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ▶ ところで地獄というのは、意外と遠いようで近くにある。 古代より死者の国があると知られているのは熊野だけど、別に地獄の釜を通らずとも地獄へ行く道などいくらでもある。なにせ死んだら誰しも1度は地獄の閻魔堂に向かわないといけないので、すぐに行けない場所にしかなかったらこの世の死者もあの世の使者も困ってしまう。それこそ地理に疎い、集落か...

三界廻って碗~第1話 かみのみそしる~

いただきます、の歴史は古い。 時間をさかのぼったわけじゃないから知らないけど、人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思う。もしくは自然への感謝、太陽への畏怖かもしれないけど、その辺りはどうでもいい。大事なのは食べ物への感謝だ。 食べるものがあるというのはありがたい。長く生きてると飢饉や天災は避けて通れない、やつらはいつだって人間の前に立ちふさがるし、畦道に現われる猪のように通せんぼしてくるのだ。遠い将来、もしかしたら世の中から飢えという概念が消え去る日が来るかもしれないけど、それでも人も獣も魚や虫でさえも生きている限りはおなかが空くし、食べ物への感謝を忘れることはないと信じている。仮に食べ物を粗末にするような愚か者が現れたら、そんなやつは滅んでしまえばいい、すべからく。 ところで人間が最初に作りだした信仰は食べ物への感謝だと思うってさっき思ったけど、人間の最初の発明は食べ物を組み合わせることだと思う。思うというか違いない。おそらく最初は蛇か鳥かなにかの生肉に果物か野草を混ぜた、とかそんなだと思う。海の方に住んでたらそれが魚と海藻に変わるけど、そこら辺の地域差は似たようなものなので気にしない。どちらにせよ、きっとそこに大きな感動があったはずだ。 さらに塩とか醤とか味噌なんて開発しちゃったものだから、それを肉や野草に塗りつけた時の感動なんて、もはや驚愕とか驚天動地とか天変地異とか、それくらいの圧倒的な強さがあっただろう。 『肉、うめぇ……!』 おそらく誰しもがそんな言葉を頭に思い浮かべ、涙を流しながらがっつくように頬張ったに違いない。頭の中でなにか爆発したというか、変な汁とか出てそうな、それくらいのうまさを感じたはずだ。食べ物を単体でしか食べない獣たちでは手に入らない特権だ。顔も知らないご先祖さまたち、おいしい食べ方を開発した人たち、今日も私たちの腹と心を満たしてくれる食べ物たち、ありがとう。 そういう連々と紡がれた糸のような歴史もひっくるめて、この言葉が発せられるのだ。そういう意味ではこれは儀式であり、あらゆるものへの祈りであり、人間としての正しい所作ともいえよう。 「いただきます」 碗に盛りつけた三分ほどに搗いた米、その上に乗せられた数切れの漬物、焼いた猪肉、ノビルと豆の味噌汁。 これが神の供物として適切かどうかは、それこそ神のみぞ知るところだけど、私的には...