神の身となって優に千数百年、未だお目にかかったことはないけど、米粒には7人の神がいるという。3人と聞いたこともあるし、88人もいるともいうし、一説には100人もいるのだとか。そうなると米粒には3人から100人ほどの神が宿っていることになるけど、八百万の神も実際に800万人いるわけではないので、数の幅はちょっとした物の例えというやつだ。 「だいたい米粒ひとつに100人も神がいたら、この世界、人間より神の方が全然多いことになるじゃないか」 なんて笑いながら今朝も朝ごはんを食べたわけだけど……まさか一眠りして目を覚ましたら、部屋を数十のちちゃい神で埋め尽くされるなんて予想するわけがない。 「……それで、お前らなんなの?」 「あっしらはゴマ粒の神。なあに、ちょいと野暮用があってここに来たんでごぜえやす」 さすが八百万の神々の国、どうやら米粒ではなくゴマ粒の神々なのだそうだ。姿は端的に表すと三度笠を被った豆もやし。縦は私の肘から指先、横幅はぎゅうっと握れそうな細さで、茶色い唐草模様のマントみたいな布切れを羽織っている。実に珍妙な姿をしていて、もしかすると人間の姿のまま神となった私や先代の大食らいの大蛇なんて、神の中ではかなり真っ当で平凡な部類の神なのかもしれない。 「それでゴマ粒の神が、うちに何の用?」 この珍妙な神が小さいとはいえ、我が家はそう広くないのだ。今時珍しい大家に現金手渡し式、家賃2万円の築数十年1DK、ひとりで過ごすには十分だけど客神招くほどの余裕はないのだ。それも数十人、いくらゴマが細々した食材だからって多すぎるだろ、とツッコミのひとつも入れたくなる。 とはいえ私の神だ、客にお茶くらい出してあげる寛容さと礼儀は持ち合わせている。手頃な鍋に麦茶をドバドバッと注いで丸ちゃぶ台の上に乗せると、餌を食べる猫の群れみたいに一斉に鍋に顔を突っ込んでいく。いや、そんなかわいいものではなく、豆もやしの群れなんだけど。豆もやしも見ようによってはかわいく見えないこともないのかな。 あっという間に空になった鍋の前で、豆もやし共は深々とお辞儀をして、 「ありがとうごぜえやす。と言いてえとこなんですが、あっしら愉快な用事ではねえんでげす」 お茶でお腹が張ったからか豆もやしの細の部分が真ん中あたりで丸く膨らみ、その影響なのか雑なべらんめえ口調がさらに崩れている。 「あっしら釘を刺しに来た...