―2―【ゾアントロピーの儀式】
太陽と災害だけは誰しも平等、と言ったのが誰だか忘れたけど、確かに平等なのは間違いない。
それが証拠にくっそ暑い。どっちかというと痩せてる体型の私は、そりゃあデブよりは暑さに強いけれど、近年の日本の夏はもう日本の夏ではないと揶揄されるくらいに暑い。
まだ7月になったばかりだというのに、熱中症で搬送される人の数は留まることを知らず、おまけに質の悪い疫病の流行と重なって救急車が間に合わないのだとか。まさに酷い状況の暑さ、酷暑という名前も伊達ではない。
そんな酷暑の中、私は右も左もわからない、ひとかけらくらいの縁と所縁ならなくもない町を歩いている。
ここは四国の南の端っこ、物心つく前に亡くなった私の父が生まれた場所だ。
「あぢー……」
こんな暑さ、仲介役のデブの情報屋なんか今頃デブ過ぎて死んでしまっているかもしれない。奴はそう思わせる程度にはしっかりとしたデブだ、造形は人間よりもブロック肉に近い。今年の暑さに耐えられるとは到底思えない。
少し心配になったのでメールを送ってみようかな。私はスマホの画面をリズミカルにタップする。
◀◀◀『百々山君、暑いけど生きてるー?』
「……返事がない、ただの贅肉のようだ」
天に召されたデブはさておき、今年の暑さは異常だ。
太陽はもはやちょっとしたガスバーナーだし、照りつける陽射しはどこかの国では刑罰だ。
罰されるようなことした覚えは……なくもないなあ、昨日も山奥の倉庫に放り込んだ病気持ちの厄介者を死なせる仕事したばかりだし。世の中には人間を上手く抑えつけるために法律があるけど、時々そういうものでは抑えつけれない上に、責任能力の欠如とか心神喪失とかで罪を免れる厄介者がいる。法が代わりに裁いてくれないなら、被害者は自力救済に走るしかないのは自然の摂理で、でもそんな厄介者のために人生棒に振りたくない、だけど復讐せずにはいられない人間は、殺し屋とか殺し屋の頂点【鮫】とか、それすらも上回る【死神ヨハネ】に依頼したりするのだ。
そして死神ヨハネは、自分を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる正体不明の伝染病を使って、倉庫の中に放り込んだ厄介者を自然死させたわけだけど、この暑さだったら熱中症で死んだ可能性もあるなって今更ながら思ったりしている。
そんなくだらないことを頭の中でぐるぐると巡らせながら、汗えぐいなとか、潮風でベタベタだなとか、田舎はコンビニがマジでないなとか、自販機のお茶じゃ追いつかないんだよとか、日焼け防止で長袖のインナー着てるけど余計に暑い気がするとか、旅を楽しくないものに落とし込む理由が幾つも湧いてくる。
くそぅ、こんなことなら経済ぶん回しの儀を旅行じゃなくて新作ゲームとかにするんだった。
ちなみに私は仕事後に豪快に金を使って経済をぶん回すことにしている。いわゆる浄財だ。お金の洗浄って呼ぶとマネロン的な意味に聞こえてしまうので、断固として浄財と呼ぶ。暗い怨念の籠ったお金を消費に還元して、厄払いしてしまおうという、ちょっとした臆病者の心理がそうさせるのだ。
その浄財に今回は、折角夏だし海に行ってみよう、そうだ父親が海沿いの方に生まれたらしいからどんな場所か見てみよう、と旅行を選んだわけだけど、別にストリートビューで見れただろって思ってる自分がいる。もちろん暑さのせいで。
「着いた……!」
私の父は海の王を迎えるという大層仰々しい名前のついた無人駅のある集落で生まれて、中学生くらいまではその土地で過ごし、高校に上がると同時に県庁所在地に上り、大学進学と共に上京したそうだ。
したそうだっていうのは、父の著作の中に他の作家との対談コーナーがあって、そこでざっくりとだけどそんな感じの経歴が語られていたからだ。ちなみに父の両親はその頃にはすでに離婚していて、故郷の家はそれとなく取り壊して土地も売ったので残っていないらしい。どうでもいいけど、もう少し愉快な対談にしようとか、そういう気遣いは出来なかったのだろうか、私の父は。
私の父、共食文樹は小説家だった。ウイキペディアによると30歳を前に累計1億部を売ったいわゆる文学界の至宝で、30代前半で筆を折ってどこかの山奥に豪邸を立てて引き籠り、数年後に急死した。父の住んでいた無駄に部屋数の多い建物は、最後に私を引き取った叔父も含めて親類縁者が全員亡くなったため、所有者が長らく不在だったけれど、数年前にどこかの外資系企業が買い取ったかで一部の建物がモーテルとして再利用されている。知ってる知ってる、泊ったことある。
生涯独身だったので戸籍上の妻はいないけど、私がこの世に存在してるので、まあそういうことだ。子どもを作る相手はいたわけだ。母も父と同日、ついでにハウスキーパーたちも同日の嵐の日に亡くなったのだけど、さすがの私もこれが正体不明の伝染病が原因だって気づいてる。そこに対しての負い目はまったくない。むしろ数年の間、伝染病から逃れてるという事実が薄っすら私への興味の無さを表してて若干引いてる。
そんな夭折の天災、共食文樹がどんな子ども時代を過ごしたのか、まったく興味はないけど見てやろうと思ってやってきたのだ。
(海の王ってなんだろう……鯨かな?)
海の王を迎える場所で生まれた男から生まれた娘が、なんの因果か魚と書いてイオって読ませる変な名前で、業界から水槽とも称される殺し屋連中の中で鮫をも上回る死神やってるんだから、なにか奇妙な縁みたいなものも感じる。
でも、海の王は別に鯨でもないようで、浜辺の石碑にはなんたら親王上陸地とか刻んであって、どうやらこれが王であるらしい。まったく魚と無関係だと、さっきの中二病くさい妄想が一気に恥ずかしくなる。
見るな見るな、乙女のこんな恥ずかしい瞬間を見るな。そう心の中で叫びながら、帽子を目深に被り直してちらっと周囲に視線を投げるも、
「まあ、誰もいないんだけどね」
こんな暑さの中、用もなく外をうろうろするような頭の悪い人間は私くらいのもので、その後も特に誰かとすれ違うこともない田舎道をぷらぷらと歩き回って、猫1匹すれ違うこともなく、ただただありふれた緑と茶色で埋め尽くされるような田舎の風景を眺めて、倒れそうになりながら自販機のコーラに飛びついて、あとは別段美味しくも不味くもないラーメンを食べたり、津波避難タワーとかいう鉄の骨みたいな塔に上ってみたり、道の駅ででっかい鯨の骨を見たりして、顔がパンの幼児向けキャラクターを模した特急に乗ってキンキンに冷えたビールと日本酒を飲みながら県庁所在地まで戻った。
ほんとは現地の民宿に泊まりたかったけど、疫病のせいで何処も休みだったから諦めるほかない。
でもオーケー、許す。ビール美味しかったし、日本酒も美味しかったし。
「歓鯨……!」
駅に着いたら、鯨の尾びれを模したモニュメントに歓迎、否、歓鯨された。実際に歓鯨って書いてあるんだから仕方ない。
そして歓鯨されてしまったからには、鯨の名前のついたお酒を飲まないわけにはいかない。
駅舎にある土産物コーナーで結構いい値段の酒を瓶で買って、こういう時のためにあらかじめ買っておいた酒瓶ホルダーをぶら提げて、夕暮れでほんのりと橙色に染まる町を歩く。
考えてみると悪くない旅になった。馬鹿みたいに暑いし、遠い割に得るものはないし、どう考えてもエアコン利いた部屋でゴロゴロしてた方がいいと思うけど、いや、考えれば考えるほど何やってんだ感が増すけれども、長い人生たまにはこういう日があってもいいわけで。
折角なので川べりで酒盛りしようと決めて、コンビニでばくだんおにぎりなるカロリーの暴力と揚げ物やおつまみを適当に買い込んで歩いていると、いつの間にか風俗街に迷い込んでいた。
旅館という名の宿泊施設ではない旅館、派手派手しい風俗店がやたらと密集した地区が、繁華街から道路1本隔てた距離にあるのは一般人にはちょっとした罠だと思うけど、職業に貴賎なし。ここで働いてる人たちの99%が、私なんかよりはずっと真っ当な手段でお金を稼いでる。黒か白かでいえばドブネズミくらいには黒ずんでるとはいえ、殺し屋と比べたらおしぼりくらい白い。
でも、女の私には一切用も縁もない場所なので、酒瓶ホルダーとビニール袋を握りしめてそそくさと歩いて通り抜ける。
それにしても酷い場所だな、もちろん良い意味で。
廃墟。廃墟っぽいビル。旅館。ソープ。廃墟? よくわからない店。廃墟。ソープ。旅館。おうおう、ディープだな。
なんて考えながら歩いていたら、私の生来の影の薄さが災いして、ジャージ姿のお姉さんにぶつかってしまう。私は究極的に影が薄い、気をつけないと人にぶつかられることなんて日常茶飯事だ。自転車より大きいものには、不思議と当たられたことは1度もないけど。
「あー、ごめんなさい」
ぶつかられた時は謝るのが最善手。なにぶつかってんだと怒るのは素人のやり口で、骨が折れたと騒ぐのは輩のやり口だ。揉め事なんて起こらないに越したことはない。少なくとも私はそういう主義だ。命は大事に、主に見知らぬ人たちの。
ジャージのお姉さんにわざとらしくない程度の薄っすらとした笑顔を向ける。
すると何をどう判断されたのか、少し待っててと呼び止められて、一瞬店の中に入っていったかと思うと、缶ビールのロング缶を片手に戻ってきて、私の抱えるビニール袋に捻じ込んできたのだ。
「人生良いことあるから!」
いや、私はどっちかっていうと今日は上機嫌で、なんだったら今から川見酒を堪能するので気分的には最良の状態なんだけど。
聞けば、なんとなく今にも死んでしまいそうな雰囲気と、世の中のすべての不幸を手当たり次第に搔き集めたような負のオーラに包まれているように見えたのだとか。
全力で否定したいところだけど、私は死神なんて呼ばれてるから、もしかしたらそういう恨み辛みや無念や怨念が全身にこびりついているのかもしれない。
男だったら、じゃあ今から洗ってもらおうかって泡風呂にでも入るところで、私はあいにく女だしそっちの趣味もないので、ビールと大吟醸で身を清めることにしよう。
お姉さんに向けて首を傾げる程度に頭を下げて、そのまま川べりへと向かい、群青色になりつつある町の中で静かに酒を飲んだのだった。